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『日本はなぜ敗れるのかー敗因21か条』を読んで その2

命令の中には無茶なものがたくさんある。できぬといえば精神が悪いと怒られるので服従するが、実際問題として命令は実行されていない。「不可能を可能とする処に勝利がある」と偉い人は常に言うが?『日本はなぜ敗れるのかー敗因21か条』山本七平

  これは日本の教育界そのままである。

 「これは日本の教育界そのままである。」と言うこと自体が、そもそも非難の対象となる。学校内部で「けしからん奴」扱いされ、生徒・保護者からも「けしからん教員」扱いされてしまう。

 日本の学校では、正直者は「けしからん奴」扱いされてしまうようである。しかし、真に「けしからん」のは誰であろうか。

 

けしからんの由来・語源

本来の形は「けしからず」で、形容詞「異(け)し」の未然形に打ち消しの助動詞「ず」がついた語。「ず」の連用形「ぬ」の終止法が広まるにつれて「けしからぬ」と変化し、さらに「けしからん」となった。
「異し」は、「普通と違い異常だ」という意味で、「けしからず」とはそれを否定したもので、つまり「もっと異常だ」ということであり、そこから「とんでもない、不届きだ」の意になった。
http://yain.jp/i/%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%93

 

 

 「 けしからん=異常」。その組織の常識と異なることを述べれば、異常になる。その組織が狂っていれば、正常が異常になる=「けしからん」になるのである。これを完全に客観的に見られるものはその場には存在すまい。ただ、後世の人々のみが判断を下せるのみ。

 文科省がいかに理想的で勇ましい施策を下に降ろそうとも、実際実行不可能なのである。数少ない「実行不可能である」と口に出した「けしからん教員」がどうなったかを、多くの教職員は見て何かを学習する。結果、誰も「実行不可能である」とは言わなくなる。実行不可能であるとは言わないが、実行されないのである。文科省の命令は末端に到達することには雲散霧消しているか、形骸化している。

 

 例えば部活動の「安全配慮義務」である。生徒は毎日部活動をする。しかし、教員は毎日課外をする。さて、教員は部活についていることができない。しかし、安全配慮義務を追う。ここに矛盾がある。実際、分身の術でも使えなければ、安全配慮義務を守ることはできないだろう。また、同時に、法的に教員には「時間外勤務を命じることができない」のである。しかし、これも無視されている。安全配慮義務も不可能。時間外勤務を命じないことも不可能。不可能を可能にしているのが学校という現場なのである。

 したがって、部活で事故が起こればそのまま処分されるか、平謝りするなり、事実を悪しからぬようにうまく言って処分を免れるかするなりするしか方法がない。いずれにせよ矛盾した命令や制度を改めることは不可能である。

 

以下の記述からもまた日本教員の現状が想起される。

 

 だが結局、敵の進撃の前に、せっかく植えた芋を捨てて、さらにジャングルの奥へと進み、そのようにして、一歩一歩と決定的な餓死への道を進んでいくのである。そしてその状態は、「精兵」どころか「兵」即ち戦闘集団の一因としての「資格」すら各人から奪っていく。すなわち全員が、着実に一歩一歩と完全な”員数”に化していったわけである。

 そしてその第一歩は何であったかのだろう。「ない」ものを「ない」と言わずに、「ない」ものを「ある」というかいわないかを、その人間の資格としたことであった。

 

 教員バージョンに書き換えてみよう。書き換えた部分は赤字で示してある。

 

…そのようにして、一歩一歩と決定的な過労死への道を進んでいくのである。そしてその状態は、「優秀教員」どころか「教員」即ち教育集団の一因としての「資格」すら各人から奪っていく。すなわち全員が、着実に一歩一歩と完全な”員数”に化していったわけである。

 そしてその第一歩は何であったかのだろう。「ない」ものを「ない」と言わずに、「ない」ものを「ある」というかいわないかを、その人間の資格としたことであった。

 

 僅かに書き換えただけで、日本教員の現状を表す文になるではないか。でき「ない」という事実をそのままでき「ない」ということができないその精神性が、教員の健康と命を奪い、学校を破滅に導いているように思われる。当然、生徒も損害を被る。

 

 事実を直視し、ないものはないと口に出すべきだろう。